2010年04月19日

リラの咲く頃に

♪ライラックって どんな花だろう
たぶん赤くて 5センチくらいの
冬に咲く花…

と歌ったのは
BJCの
ベンジーさんでした。

でも「正解」は、
白や薄紫の、
春に咲く小さな可愛い花です。

下鴨幼稚園では
すべり台の南側にあって
今年も真っ白な花を
たくさん咲かせ
芳しい香りで
私たちを楽しませてくれています。

ライラック。
フランス語ではリラといって

リラの咲く頃

というと
フランスでは
とても良い季節のことを
指すそうです。

その木の横で
新入園児のSくん
ひとりポツンと立っていました。

年度のはじめは
在園児さんでも
ある程度そうですが
一日のはじめはとくに
遊びあぐねてしまいがちです。

新入園児さんなら
なおさらですね。

なにしてあそぼう、
と近づいても
お返事がありません。

そこで
このお花いい香りがするよ
と、さそってみました。
すると彼も
園長先生のまねをして
咲いているライラックの花に
鼻を近づけました。

そして、
「いい香りするでしょ?」
と話しかけると
「ウン」と彼。

ここから何かが始まるかな

と思ったのですが

やっぱりすぐに
浮かない顔にもどってしまいました。

あんまり「迫って」も いけないので
少し彼から離れることにしました。

しばらくすると
こんどは何か言いたげです。

また近づいて
「どうしたん?」
と聞くと

ボソッと

「すべり台ぬれてる…」。

そうか
前日の雨で
すべり台が濡れてて
すべることができなかったんだ

そこで
「タオルで拭いたら乗れるよ」
と言うと、

Sくんの曇った顔が
パッと明るい笑顔になったのです!

そう変わるさまは、
真っ暗な部屋にパッと電気がついたような
夏の夜空に開く大輪の花火のような…

その瞬間を
世界中のひとたちに、
映像で見せたい!
と思うほどでした。

さて それから
すぐにタオルを取りに行き、
Sくんのところに
戻ってきました。

ところで
すべり台を拭いてくれる
お友だちには「特典」があります。
すべる部分にタオルを敷いて
その上に乗って
滑ることができるのです。

Sくんにそれを伝えると
とても よろこんで
タオルの“ソリ”に乗って
すべってくれました。

在園児さんなら
慣れていて
すべり台が濡れていたら
すぐに言ってくれるのですが

そうそう
Sくんは新入園児さんでした。
これでおぼえてくれて
次からこういうときは

タオルください
と言えるよね

なんども なんども
とても嬉しそうに
すべり台をすべる彼を見ながら

そんなことを考えていました。

リラの咲く頃に―

とびっきりの笑顔に
出会えました。
それはパッと開いた一輪の花

ところで
ライラックの花は
今では
ほんの少ししぼみはじめ
香りも弱まってきました。

季節は花の頃から
新緑へと

確実に向かっています。




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2010年04月08日

さいた さいた

今日は入園・始園式。
よろこびのうちに
無事に式を終えることができ
感謝です。

春休み中に
数週間会ってなかっただけなのに
少し大きくなった子どもたちの姿をみて
やはり
子どもたちの成長というのは
不思議と
驚きと
感動をともなっている
と思ったことでした。

新しいおともだちを迎える
新青組さんの「ことば」も
元気にできましたね。

その「ことば」のなかにもでてきましたが
今まさに園庭ではチューリップが
賀茂川の桜と同様 
満開を迎えています。

そして式をしめくくるお歌も
毎年のことですが
チューリップの歌です。

♪さいた さいた
 チューリップの花が
 ならんだ ならんだ
 あか しろ きいろ
 どの花 みても きれいだな

この歌を聞くと
15年ほど前に聞いた
神学校時代の
恩師の話を思い出します。

彼は若い頃にアメリカに留学しているのですが
30年ぶりに行ったアメリカで参加した
あるワーク・ショップでのことです。

そのワーク・ショップは多民族共生
という課題がテーマでした。
その最終日
お別れのパーティーで
各国からの参加者が
それぞれ自国や自民族の伝統文化で
出し物をすることになりました。

恩師は思案した結果
チューリップの歌をうたうことにしたそうです。

彼は言います。

この歌のなかの
とくに

どの花 みても きれいだな

がいい、と。

つまり
どの民族にも どんな人にも
優劣なんかない。
それぞれ違って それぞれ素晴らしい
というメッセージがそこにある
というのです。

私は
チューリップの歌を
そういうふうに聞いたことがなかったので
驚き
新鮮な風が
心のなかを吹き抜けていくのを
感じました。

みんなちがって みんないい
とは金子みすずさんだったでしょうか。

「世界に一つだけの花」
という歌もありましたね。

こうした歌と通底する
メッセージが
チューリップの歌には
あるのですね。

ご入園・ご進級おめでとう!

48の“チューリップ”たちが
新しい年度のスタートをきりました。

今年はどんな花を咲かせてくれるのでしょうか。

どの花みても きれいだな

どの花みても かわいいな

一つひとつちがう花を
一つひとつ大切に育ててくださる方を
仰ぎながら

一つひとつの
その育みを

今年もまた
精一杯
サポートしていけますように!

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2010年04月07日

最初で最後の…

下鴨幼稚園では
毎週金曜の礼拝が終わると
子どもたちは一人ひとり
出口に立っている園長と
握手をして
礼拝堂を出ていくことになっています。

ほとんどの子は
握手をしますが、
もちろん
そうしたくない子もあります。

なかでも、年長さんのAちゃんは
徹底しています。
年度のはじめから毎回必ず
握手をしないことを通してきました。
そこに ある種の「こだわり」も
あるようです。
また、彼女には、コミュニケーション
に関する課題もありました。

そんな一年を過ごして
卒園式が近づいた
最後の礼拝でのことです。

この礼拝のあとも
いつもの通り
園長の前に来ると
少し遠巻きに歩いて
こちらをちらっと見ながら
「○○、握手しないも〜ん」
といって通りすぎようとします。

そうなのです。
実は、まったく
握手をしたくないわけではないのです。
おそらく本当は握手したい。
でも、何らかの理由で
それについて素直になれないのでしょう。
彼女の、あるプライドが
そうさせるのかもしれませんね。

いつもなら無理強いせず
大らかにそれを受けとめるところです。
でも、今日は年長さんにとっては
幼稚園でほんとうに最後の礼拝なのです。

このまま終わっていいのかな
このまま終わりたくないな
という思いが
何週間か前からしていました。

時間にすれば
わずか数秒のことでしたが
思い切って
握手を促すことにしました。

その促しがあまり負担にならないように
気をつけながら…。

「最後くらい握手しようよ」

すると彼女は
一瞬立ち止まって

次の瞬間
おどろくほど素直に
応じてくれたのです。

少しはにかみながら
最初で最後の
握手をしてくれました。

すると急にさびしくなったのか
こんなやりとりになりました。

「園長先生、まだ幼稚園にいる?」

「いるよ」

「月曜日もいる?」

「月曜日もその後も、ずっといるよ」

「じゃあ月曜日遊んでね。約束だよ」

「そうだね約束するよ」

コミュニケーションの課題も
ここではひととき乗り越えられていました。

別れを惜しむということが
この小さいひととの間にも
成立していることに
胸が少し熱くなりました。

でも4月からは小学生。
あまりセンチメンタルになってもいけません。

大きな成長を喜び
この小さな幼稚園から
大きくはばたいてほしいと
願わざるをえません。

そして
新しい生活への
期待とともに不安もまた
ふくらんでいると思います。

でも大丈夫
神さまの大きな手が
あなたを守り
その道行きを導いてくださる―。

そんな思いをこめたのでした。

最初で最後の握手をにぎる手に…。



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2010年02月15日

届ける 届く

お弁当の時間のことです。

私が座った席から
離れた場所に座っている
子どもたちが
こちらに手を伸ばしてくれます。

園長がお隣の席に来なかったから
せめて手だけでもと、
手を伸ばしてくれるのです。
その手にタッチしたり、
握手したりして
それに応えます。

そうして手を伸ばしてくれるとき
子どもたちは口々に
「届けるー?」と
私に聞こえるように大きな声で
呼びかけてくれます。

それは
(園長の手が)自分の手まで届く?
という意味で、
「ける」のなかに
“可能”のニュアンスが含まれているのです。

私は一つひとつ

こういうときは
「届く?」でいいんやで
といちおう直します。

でも
ほんとうは
「届ける?」のほうが
子どもたちのまごころが
こもっているような気がします。
いっしょうけんめい
手を伸ばす気持ちがここに
込められているように感じます。


「届ける?」
みんなの気持ちは
わたしの心に
じゅうぶん
届いていますよ。

そんなことを感じていて

後日談です。

数日後にそのクラスに行くと
やはりまた席の離れた子たちが
手を伸ばしながら
こんどは
ちゃんと
「届く?」と
言ってくれていました。
みんな「届く?」に
変わっていました。

よかったのですが
「届ける?」のほうが
かわいいといえばかわいいのです。

やはりちょっと残念…!?。



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2010年01月07日

子どもと時間

あけましておめでとうございます!

今年もどうぞよろしくお願いいたします。
2010年が子どもたちとご家族のみなさまにとって
良い年となりますように。

明日から3学期がはじまりますが、どうぞよろしく
お願いいたします。

年末年始は旧い年から新しい年への移り変わりのとき
大人になった今でも、つい数日前が「昨年」ということ
に不思議な感じがしています。

というわけで、この時期私はよく、「時間」について
考えることが多くなります。
とくに 子どもと時間との関係は、大人と時間との関係
とはまた少し違うような気がして興味深いものです。

子どものときには、たっぷりあるように思えた時間も、
今となっては一週間過ぎるのが早いこと!

これは、一節には、身体の代謝とも関係があるようです。
つまり、代謝の良い若い人や子どもほど、体内の速度が速いぶん
体外の時間(つまり、ふだん時計で計られる時間です)が過ぎる
のが遅く感じるのだそうで…。そこで、朝の「5分」はあんなに早いのですね。
 やや「メタボ」つまり「代謝異常」な私は、
どおりで時間の過ぎるのが早く感じるわけなのですね…。

先日も子どもと時間について、教会の「説教」でお話しをしましたので、このブログに再録しますね。


タイトル:幼な子と時間(12月27日)

聖書箇所:ヨハネによる福音書1・1-18

 子どもたちの話しに耳を傾けていると、大人との時間感覚の違いを感じることがよくあります。昨日行ったお母さんとのお買い物の話しをしているかと思えば、一年以上前のお出かけの話しを始めたりします。

 小さい子ほど過去、現在、未来が未分離なのでしょう。このことは、よく考えてみるとなかなか素敵なことのようにも思えてきます。なぜなら、その子のなかでは、ずいぶん過去のことも今現在のことのように新鮮だということだからです。また、過去・現在・未来という概念が殆んどないというのは、見方を変えれば、たいへん自由だとも言えます。概念というのは色眼鏡ともいえるからです。

 ところで、ヨハネ福音書の冒頭はロゴス・キリスト論と呼ばれる箇所です。「初めに言があった」で始まります。そして、3節には「万物は言によって成った」とあります。この「言」はイエスさまのことを指しています。しかし、この「言」がイエスさまだとすると、なぜ天地創造の時(「万物は言によって成った」とあるので)にイエスさまがおられるのだ、と混乱してくるのです。

 そこで先ほどの話に戻りたいのです。子どもの時間に対する感覚、実はこれは聖書の言葉、神の言葉、の時間感覚に近いものがあるのではないか、ということなのです。文法としての時制については、新約聖書の原語であるギリシャ語には、日本語以上に厳密に時制の区別があります。しかし、聖書では、過去の出来事が現在や未来のこととして語られ、現在に未来が突入してくる描写すらあるのです。さきほど、ヨハネ福音書の冒頭を読むと混乱すると言いましたが、子どもたちの時間感覚からいえば、案外そうでもないのかもしれません。

 時間の区切りが「ぐちゃぐちゃ」、それをキリスト教では、いや大人の言葉では、神の永遠性と言います。それは、伝統的には「はじめにあり いまあり 世々に限りなくあるなり」と表現されてきました。神さまが永遠である、ということが、かの出来事がいまの出来事でありつつ、未来の先取りであると言いうる秘密なのです。

 イエスさまが幼な子の姿でこの世に来られたことを描いている降誕物語(マタイ福音書とルカ福音書にだけ載っています)は、もしかしたらヨハネ福音書が冒頭で表現したかったことを物語の形で語っているのかもしれません。幼な子の姿そのものが、過去と現在と未来とを越える方が来られたことをあらわしているのかもしれないのです。

 この視点から、このヨハネ福音書の冒頭を読み返してみると、また新たな発見があるかもしれません。そして、そのときに、この「言」の、ロゴスの、この方の、「満ちあふれる豊かさの中から、恵の上に、更に恵みを受けた」(16節)という神秘に触れることができるのではないでしょうか。









posted by 園長先生 at 15:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年12月12日

犬も歩けば…

前回の記事から2ヶ月以上経ってしまいました…。

秋のさまざまな行事に突入したのもそうですが
新型インフルエンザの対応と、
自分が罹ってしまった今年の流行風邪とで
手つかずになってしまって…すみません…。

新型インフルエンザの陰に隠れて夏頃から
流行しているこの風邪、とても長引くので
インフルエンザはもちろんですが
これにもどうぞお気をつけくださいね。

…さてさて、最近お母さん方のあいだで
「マジック・テープって“ベルクロ”って言うよね?」
という会話が交わされました。はじめにこう問いかけた
お母さん、なかなかうなずいてくれる人がいなくて、
とまどっておられたようですが、二日目には、やっと
「知ってる知ってる!」と言ってくれる方がみつかり、
ほっとしておられました。

私も知りませんで、
「いやー、聞いたことないですね…」
と答えるほかなく、心細い思いを
増すこととなり…ゴメンナサイ!

―あれから、
とっても身近なものだけに
なんだか気になってネットで
調べてみました。

するとこんなエピソードを発見しましたよ。

…1940年代初頭のスイス。
ある発明家が愛犬とお散歩をして家に帰ったときのこと。
わんちゃんの服と自分のズボンに
“オナモミ”(よく野山にある、“ひっつき虫”のことです!)がいっぱいくっついているのに気づきました。

並のひとなら
うんざりしながらオナモミをとっておしまいですが
そこは発明家。
好奇心に駆られた彼は、それを顕微鏡で調べてみました。
すると、オナモミに無数のかぎ状の突起があることが判りました…。

そこからマジック・テープが誕生したのだそうです。

かぎ状の突起(フック)が、服の繊維の輪っか(ループ)に
ひっかかって、“ひっつく”ということで、英語では
フック・アンド・ループ・ファスナー(…なんかそのまんまの
ネーミングですね…)というそうです。

そしてフランス語でループをあらわすvelour(ベロア)とフックを
あらわすcrochet(クローシェ)を組み合わせてvelcro(ペルクロ)
という言葉が造られ、ベルクロ・テープという名は、ベルクロ社の登録商標として生まれたとのことです。

ちなみにマジック・テープも東レ社の登録商標だそうで、私も今回はじめてマジック・テープが商品名であることを知りました。一般的な名称としては「面ファスナー」というそうです。
(※以上、ベルクロ社のHP等を参考にさせて頂きました)

…それにしても
どんなことから発明につながるか
分らないものですね。

発明につながらないまでも

「犬も歩けば棒に当たる」と言いますし
いろいろなところに出かけることで
思わぬ発見をするチャンスは増えるのでしょうね。

また、電化製品から自動車から何でも自分で修理する私の友人は
その秘訣を、(故障したところを)「よく見ること!」
と教えてくれました。

絵画のデッサンでも、対象物の本質が見えてくるまで
よく見なくてはならない、という話しを
ある文筆家の文章で読んだことがあります。

いろいろなところに出かけてみること

よく見ること

この二つは

何かが生み出される源というところでしょうか。

子育てのなかでも

大切な要素といえるかもしれませんね。





posted by 園長先生 at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年10月01日

まっすぐをちょうだい

暑さ寒さも彼岸まで…
とはよくいったもので

彼岸花が咲くと
それまでの残暑から
秋らしい涼しさが
到来するから不思議です。

先週のことです。
礼拝堂の東側にも
十本以上の彼岸花が
自生し
いっせいに花を咲かせました。

彼岸花を根元から折って
中ほどから先を
一つおきに
皮を残して
茎をちぎっていくと…
綺麗なちょうちんのできあがりです。
(毒は根の部分だけですのでご安心ください)

突如として
ちょうちん屋さんが開店です。
次から次へとおともだちがやってきます。
ちょうちんをつくって手渡すと
どの子も喜んでくれました。

そうしていると
なかには、(ちょうちんにしていない)、
「まっすぐのをちょうだい!」
という子もいます。
根元の部分から手折るだけにして手渡すと
それもまた嬉しそう。

なるほど―。
大人の目からすると
ちょうちんにするほうが
断然すてきで楽しく見えます。
でも、
子どもたちにとっては、
まっすぐなままの彼岸花も
新鮮
なのですね。
そのまっすぐな気持ちにも
感じるところがありました。

その日の晩のこと
うちの子と
DVDのアニメ「一休さん」を見ていると
(先日、突然友人が送ってくれたのです!)
こんな場面がありました。

その回では、いつになく和尚さんが
次々と一休さんに厳しい修行を課し
ています。なぜなら、“とんち小坊主”
としてちょっとした評判になったため、
一休さんが少々おごり気味になっていたからです。

さて、物語の終盤
修行の一環で稲わらを山のように
背負って帰ってきた一休さんを
和尚さんは寺に入れようとしません。
稲わらを雨で濡らしたことも理由の
一つでしたが、
「お前は寺に入る資格がない!」
というのが根本的な理由でした。
実は、これ自体が禅問答になっているのです。

さて、
ふりしきる雨のなか
いつものとんちで
一休さんは
知恵を絞り、寺の中に入ろうとするのですが、
どれも上手く行きません。
さらに瞑想を続けて…万策尽きたと思われた
瞬間、ふいにまわりの景色すべてが
崩落したように闇へと消え去り
その闇のなかに
一休さん一人がぽつんと
取り残されるのです。

それまで感じたことのなかった
孤独が一休さんを襲います。
ふだん豪胆な一休さんも
このときばかりは
寺の門に駆け寄り
なりふりかまわず
「和尚さん! 心細いです、怖いです!
どうかお寺に入れてください」と
門を叩いて懇願します。

すると和尚さんは
やっと門を開けて
一休さんをなかに入れてくれました。

そして、とんちは大事だが
それは物事を斜に見ることであり
もっとも大切なのは素直な心で
仏にすがること
と語りかけてくれたのでした。

一休さんが初めて「無」に触れた瞬間だったのでしょう。
悟りの第一段階に至ったというべきでしょうか。

聖書では
「心の貧しい人は幸い」
という聖句がありますが
「心の貧しい人」とは
ただ神に寄り頼む人
を意味します。

現代のポップ・ミュージックでも
「…近頃じゃ 夕食の話題でさえ
 仕事によごされていて
 さまざまな角度から
 物事を見ていたら
 自分を見失ってた…」
(ミスター・チルドレン)
なんていうフレーズがありましたね。

大人になると
まっすぐな角度とは異なる
別の角度から物事を見ることに
慣れてしまいます。
でも、そうすることで
大切なものをとりこぼしていることも
あるかもしれません。
あるいは、その見方で
大人の、「良かれ」という思いを
子どもたちに押しつけてしまうことも…。

まっすぐな彼岸花をもとめる
子どもたちのまっすぐなまなざしから
そんなことを思い巡らす
秋の夜長でありました。

暑さ寒さも彼岸まで…。
涼しさが寒さに変わっていく季節
どうぞみなさまご自愛ください。

posted by 園長先生 at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年08月25日

明洞大聖堂と子どもたち

先月は出張が続きましたが、
そのうちの一つは韓国出張でした。

ウイリアムス神学館という
神学校(牧師養成校)の副館長を
兼務している関係で(普段は週一回程度勤務しています)
韓国の教会の活動と、日韓の歴史を学ぶ
学生たちの韓国実習の引率でした。

韓国へは、15年近く前に訪れたのが初めてで、
今回は3回目…。

前回は2年前でしたが、
その時と大きく変わったことが二つありました。
一つは、日本語の「普及」です。
2年前には皆無でしたが、ソウル市内のお店では
日本語を話す店員さんが断然多くなり、
街角にも日本語の看板が見られました。
それだけ日本からの観光客が多いということですが、
このことが日韓関係の進展をあらわしているならば
喜ばしいことですね。

もう一つは、地下鉄の乗り方が変わったこと!
前回は路線図の英字標記が分かればOKだったのですが、
最新の券売機になってからは、
液晶画面のハングル文字が分からなければ、
行き先表示にまで辿りつくことができません。
たまたま居合わせた、最新の機器に戸惑う韓国のおばあちゃん
とともに、親切な案内員のお兄さんのお世話になりました。
優しく教えてくださってありがとう。
ちなみにこの情報は、最新の『地球の歩き方』にも載っていませんでした…。


さて、
いくつもまわった見学先のうち
ソウル中心部の北東にある明洞(ミョンドン)大聖堂で、
こんなことがありました。
それは、歴史あるカトリックの大聖堂で、
日本でも放映された有名なテレビドラマでも
舞台の一つとなったそうです。
この建物の見学も良かったのですが、大聖堂に隣接する
売店(教会用品店)アプローチの階段のあたりで遊ぶ子どもたちが目にとまりました。おそらく国内観光で訪れた大人たちに連れられている韓国の子どもたちです。大人たちは売店で品定めに夢中です。

ところで、その日は一日中小雨模様で
少し残念な気候だったのですが、やはりどんなときでも
楽しい状況に変えてしまう子どもってすごい。
雨樋からつたった水が集まりいきおいよく出てくる排水口にレジ袋を構えて沢山の水を汲んでいます。
そしていくつも空いている小さな穴から出る水を眺めたり、他の子と水かけっこをしたり…。
そのあたりはどの国も
そう変わらないのでしょうね。

その楽しそうな姿とそびえ立つ大聖堂との対比を
おもしろく感じました。

「権威」とは無縁な子どもたちの無邪気さ、自由さ、に梅雨の晴れ間のような心地の良さを感じました。

下鴨幼稚園では、昨日から夏期保育が始まっています。
今日の降園時、ビニールプールの排水で
大きな水たまりができました。
さっそく何人もの子どもたちが遊んでいます。

その姿を眺めながら
明洞でみた子どもたちを思いだしました。

おもわぬ泥んこ遊びで
おうちのひとにとっては、
ちょっと困るところもあるかもしれませんが、
こんなふうに無邪気に遊べる
環境があらわしている

自由と平和を
私を含めた大人たちが
大切にできるといいな
と思った昼下がりでした。
posted by 園長先生 at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年08月14日

やっと!

ずいぶんごぶさたしてしまいました。
みなさまいかがお過ごしでしょうか。

平年ほどではないとは言え、暑いものは暑いですね。
どうぞ夏バテにお気をつけくださいね。

少しさかのぼりますが、
お泊り保育のことをひとつ…


以前こいのぼりのことを書いた
ブログでも「登竜門」に触れましたが

お泊り保育は
まさに年長組さんの「登竜門」

全員そろって
無事終えることができましたね。

心配された(?)夜も
意外に早くみんな夢の中…

翌朝にはひとまわり大きくなった
みんなの姿に出会うことができました。

ところで

今年も「しもがもおんせん」をみんな
楽しみにしてくれていましたね。

いかがだったでしょうか。

(園長宅の)中はこうなっていたのか!
と分かったとは思いますが
きっと一回だけでは
やっぱりまだ不思議ゾーンなのだと思います。
私も入居したての頃は「???」だったのですから…。

さて
浴室に入った子どもたちは
(シャワーを)あたまからかけていいよ、
とリクエストをする子や
隙をみて(?)泳ぐ子などなど
みんなとても楽しそう、気持ちよさそう
でした。

なかには、
「しもがもおんせんに入れてよかった!」
とつぶやく子もいて…
って、いやいや、
まだまだ入ったばっかり
最初のかけ湯なんですけど…。

この子の言葉が印象深くて
後日ほかの先生に話してみると

「上の子たちから何度も聞かされてきたから…」
ということでした。

それで!

先に卒園したおにいさんやおねえさんから
さんざん しもがもおんせんのことを聞かされてきたのでした。

だから
その子にとっては浴室への一歩で
じゅうぶんに しもがもおんせんに
「入った」!ことになるのです。

5才児にとって
2年や3年という歳月が どれだけ長いことか

おにいさんやおねえさんから
聞かされ続けた
あのワンダーランド…

まさに一日千秋の思いで待ち続け
やっとここに来られた!
という思いだったのでしょうね…。

そのつぶやきの
深さと重さ
そして瑞々しさを
忘れないように
と肝に銘じたことでした。
posted by 園長先生 at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月22日

どろだん日和

「えんちょうせんせい、
おだんご食べにきてください」

そのお誘いのことばに
顔をあげると

お庭の日よけパラソルの下で
おだんごやさんの開店です。
もちろん泥でできた
おだんごですよ。

お店にいくと

紙きれに書いた“メニュー”
を渡してくれる子
おだんごをつくっている子
じょうろで水を汲んできて
おだんごの原料となる
泥をつくってくれる子

それぞれのしかたで
ごっこ遊びが進んでいます。

みていると
ひとりのおともだちは
どろだんごの匠
と呼びたくなるほど
ピカピカのおだんごを
いくつもこしらえて
お皿にならべています。
聞けば
お兄ちゃん直伝だそうで
どうりで
手際もいいのですね。

さてさて

しばらくすると
お客さんでいるよりは

私もおだんごをつくりたくなりました。
“匠”さんのようなピカピカは無理そう…。

なので
大きなのを作ることにしました。
子どもたちに
驚いたり 喜んでもらえるといいな。

実際にやってみると
固めるのって意外と大変
でも、なんとか
大きいおだんごができました。
砲丸投げの球くらいの大きさです。

むっちゃおっきいー!
という声が挙がったので
「持ってみる?」とさそってみると
持ってみた子は
「おっも(重)ー!」

すると
匠ちゃんから
「わたしのも持ってみてー」
との声。

そこで
彼女のおだんごを手にのせた私は
パントマイムのように
その重みで手が下がったような動作をして
やっぱり
「おっもー!」

それから何回も
彼女と私で交互に
その子のつくったピカピカの
手のひらサイズのおだんごを手にして
「おっもー!」と
重いものを持つフリあそびをしたのでした…。


そうしているうちに
私はひとり
梶井基次郎の『檸檬』
を思い出していました。

冷んやりとした触り心地と
その手ごたえに
何かしら
“生”の感触を
基次郎は感じていたのでしょう。

…もう20年以上も前に読んだきりなので
大はずれの読みでなければ
いいのですが…

子どもたちにとっての泥だんごは
そのレモンにもどこか似て

“生”の感触を
その手に 心に
伝えているのかも
しれません。

基次郎の檸檬は
その後、丸善の書籍の上に置かれ
「爆発」することになっていました。

泥だんごもまた
いつか
子どもたちの
成長の途上で

創造性の開花として

爆発する―。
なんて
夢想をしておりました。


…ところで――。

一日の仕事を終え
自宅の洗面所で
うがいや手洗いをしていると

小学校から帰ってきた娘が
駆け込んできて言いました。
「おとうさん!今日、学校で
どろだんむっちゃ綺麗にできたで!」

どろだん?
あー、泥だんごのことね。
…えぇ? てことは
同じ日に親子で
別々の場所で
泥だんごを作ってたってこと???

話しを聞いていると
綺麗につくるためには、
いろいろな場所の土を何層にも
塗り重ねるのがコツらしい。

土にこだわるところは
陶芸の名人みたいだね。

しかも
よく聞いてみると
娘の師匠は、実は、
昼間 幼稚園で
ピカピカのおだんごを
いくつも作ってくれていた
匠ちゃんのお兄ちゃんで…。

それらの共時性に
驚いてしまいました。

その日の園庭は
雨の翌日とか
とりたてて泥あそびをしたくなるような
コンディションだったわけではありません。
晴天が続いている日々の
なんてことのない晴れの一日でした。

なぜだかわからないけれど

泥だんごをつくる衝動をおこさせるような
そんな日だった?

どろだん日和
だったのかな…


posted by 園長先生 at 14:59| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記