2011年06月24日

ほっこりとキリスト教

※この記事は京都教区報『つのぶえ』最新号の1面に掲載されたものです。

ほっこりとキリスト教

                   司祭 ヨハネ 黒田 裕
  
 いまから二〇年ほど前、吉本興業が東京に進出してからでしょうか、
最近ではすっかり関西弁が全国区になってきたのを感じます。もちろん
以前から全国的に認知されていた方言であることに変わりはないのです
が、異なるのは、関東の人たちも、関西発のことばを端々で使うように
なってきたことです。

 そうしたことば、とくに京ことばでここ一〇数年来、全国区になって
きたなと感じさせるものに「ほっこり」があります。温かくゆったりと
くつろいでいる状態を指して使われているようです。私自身、京ことば
が「母語」ではないのでそのように理解していました。

 ところがあるとき、代々京都で生まれ育った方から、「ほっこり
は、あい(間)のことなんですわ」と教わりました。つまり、何らかの
活動の合間にある中間的な概念だというのです。

 ものの本によれば、確かに、「暖かそうなさま…ふくよかなさま、色
つやがよく明るいさま」「さつまいものふっくらと蒸し上がったのも…
炬燵(こたつ)の温もりも、またほっこり」(『京の口うら』京都新聞社
刊)ですが「とはいえ、ほっこりの実感は、なにかをなし終えてのひと
とき…がふさわしい。日がな一日、しっかり気張って、ほっと安堵した
ときに、思わずついてでるのが、このほっこり」(同書)なのだそうで
す。ここには次の活動が予想されてはいませんが、しかし、もし「ほっ
こり」が先述したようなある種の中間状態を指すとするならば、存外キ
リスト教が大切にしてきたものと共鳴するのではないかと思うのです。

 聖書から思いつくままに挙げれば、エジプト脱出直前にモーセはミデ
ィアンの祭司のもとに逗留していますし、追手から逃れたエリヤは、前
線に向かう前にケリト川のほとりで一時過ごします。世に来られた後イ
エスさまも荒野で過ごしてから次の公活動へ出ていかれましたし、「枕
するところもない」なか、時おり山で祈って次の活動へと進まれます。
そもそも十字架後の三日間は復活へ向けた中間状態でした。また、日々
の生活の労苦のただ中で、週毎に迎える主日には、神の前に憩い、み言
に聴き、聖餐の恵みを受け、新たな命を与えられて、また生活の最前線
へと派遣されていきます。私たちの生活はそれぞれの中間状態、いわば
主と共にあるほっこりを軸に展開していると言えるのではないでしょう
か。

 さらに言えば、キリストにおいて救いは到来したがいまだ完成してい
ないというすでに≠ニいまだ≠フ緊張のなかで、終末に向かう中間
時を「待ちつ急ぎつ」歩むのがキリスト者と言われます。これを私たち
は、主にある大いなるほっこりへと生かされている、と捉え返すことが
できるのではないでしょうか。被災地にある全ての人びとに一日も早く、
少しでも多く、このほっこりの余地が広がるよう祈りつつ、その思いを
深めています。
 

posted by 園長先生 at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記