2010年01月07日

子どもと時間

あけましておめでとうございます!

今年もどうぞよろしくお願いいたします。
2010年が子どもたちとご家族のみなさまにとって
良い年となりますように。

明日から3学期がはじまりますが、どうぞよろしく
お願いいたします。

年末年始は旧い年から新しい年への移り変わりのとき
大人になった今でも、つい数日前が「昨年」ということ
に不思議な感じがしています。

というわけで、この時期私はよく、「時間」について
考えることが多くなります。
とくに 子どもと時間との関係は、大人と時間との関係
とはまた少し違うような気がして興味深いものです。

子どものときには、たっぷりあるように思えた時間も、
今となっては一週間過ぎるのが早いこと!

これは、一節には、身体の代謝とも関係があるようです。
つまり、代謝の良い若い人や子どもほど、体内の速度が速いぶん
体外の時間(つまり、ふだん時計で計られる時間です)が過ぎる
のが遅く感じるのだそうで…。そこで、朝の「5分」はあんなに早いのですね。
 やや「メタボ」つまり「代謝異常」な私は、
どおりで時間の過ぎるのが早く感じるわけなのですね…。

先日も子どもと時間について、教会の「説教」でお話しをしましたので、このブログに再録しますね。


タイトル:幼な子と時間(12月27日)

聖書箇所:ヨハネによる福音書1・1-18

 子どもたちの話しに耳を傾けていると、大人との時間感覚の違いを感じることがよくあります。昨日行ったお母さんとのお買い物の話しをしているかと思えば、一年以上前のお出かけの話しを始めたりします。

 小さい子ほど過去、現在、未来が未分離なのでしょう。このことは、よく考えてみるとなかなか素敵なことのようにも思えてきます。なぜなら、その子のなかでは、ずいぶん過去のことも今現在のことのように新鮮だということだからです。また、過去・現在・未来という概念が殆んどないというのは、見方を変えれば、たいへん自由だとも言えます。概念というのは色眼鏡ともいえるからです。

 ところで、ヨハネ福音書の冒頭はロゴス・キリスト論と呼ばれる箇所です。「初めに言があった」で始まります。そして、3節には「万物は言によって成った」とあります。この「言」はイエスさまのことを指しています。しかし、この「言」がイエスさまだとすると、なぜ天地創造の時(「万物は言によって成った」とあるので)にイエスさまがおられるのだ、と混乱してくるのです。

 そこで先ほどの話に戻りたいのです。子どもの時間に対する感覚、実はこれは聖書の言葉、神の言葉、の時間感覚に近いものがあるのではないか、ということなのです。文法としての時制については、新約聖書の原語であるギリシャ語には、日本語以上に厳密に時制の区別があります。しかし、聖書では、過去の出来事が現在や未来のこととして語られ、現在に未来が突入してくる描写すらあるのです。さきほど、ヨハネ福音書の冒頭を読むと混乱すると言いましたが、子どもたちの時間感覚からいえば、案外そうでもないのかもしれません。

 時間の区切りが「ぐちゃぐちゃ」、それをキリスト教では、いや大人の言葉では、神の永遠性と言います。それは、伝統的には「はじめにあり いまあり 世々に限りなくあるなり」と表現されてきました。神さまが永遠である、ということが、かの出来事がいまの出来事でありつつ、未来の先取りであると言いうる秘密なのです。

 イエスさまが幼な子の姿でこの世に来られたことを描いている降誕物語(マタイ福音書とルカ福音書にだけ載っています)は、もしかしたらヨハネ福音書が冒頭で表現したかったことを物語の形で語っているのかもしれません。幼な子の姿そのものが、過去と現在と未来とを越える方が来られたことをあらわしているのかもしれないのです。

 この視点から、このヨハネ福音書の冒頭を読み返してみると、また新たな発見があるかもしれません。そして、そのときに、この「言」の、ロゴスの、この方の、「満ちあふれる豊かさの中から、恵の上に、更に恵みを受けた」(16節)という神秘に触れることができるのではないでしょうか。









posted by 園長先生 at 15:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記